【87】台東区今戸 穢多頭弾左衛門の屋敷跡
観音裏をさらに北東へ、奥浅草とでも呼べばいいのでしょうか、今戸という住居表示が現れます。江戸時代、ここには塀などで囲まれた一画がありました。関東一円の被差別民を統括する「穢多頭」の屋敷・役所を中核に、その役人などが住んでいたそうです。
穢多頭は13代まで続いた世襲制で、弾左衛門という名で代々呼ばれていたそうです。都立浅草高校のグラウンド辺りに屋敷があったようです。高校のすぐ横には、山谷掘公園があります。江戸時代の古地図では、この一画は空白になっているとか。弾左衛門については、塩見鮮一郎さんという人がいろいろ本を書いています。
江戸時代、皮革産業は被差別民による独占が認められていました。明治維新後に任を解かれた13代目弾左衛門は、その振興に尽力しました。この辺りを歩くと、靴をはじめ皮革製品の工場が多いことに気づきます。
1616年に創建したとされる本龍寺、ここに弾左衛門の墓があります。幕府からは「穢多頭弾左衛門」と呼ばれていましたが、自らは「矢野弾左衛門」と称していたそうです。
本龍寺のすぐ近くに、縁結びで有名な今戸神社があります。招き猫発祥の地、さらには新撰組の沖田総司が没した地でもあるそうです。
猫の置物がいっぱい。よく見るとジョウロです。
ピークは過ぎましたが、山谷堀公園にアジサイが群生していました。いまは暗渠のこの公園、掘だった昔は吉原に出かける客が隅田川からこの辺りまで舟を乗り入れていたそうです。
※Nikon D7100で撮影。3枚目はRicoh GRで撮影。